想々煙花






「でぇ〜きすぎ〜おはよぉ」
 階上の手すりにもたれかかりつつ、間延びした、だらけた声を出したのび太は、出木杉に向かってひらひら〜と手を振ると、着物の裾を床にこすりつけながら、階段を下りてきた。
「おはよう、のび太」
 声を聞いた時点では、ちょうど店の入り口で出入りの商人と会話をしていた出木杉だが、その光景を見ると早々に話を切り上げ、階段に向かった。
「そんな格好だと、こけるよ」
 ゆっくりと降りてくるのび太の足元で、垂れている服の裾がつま先をかする。
 柳眉を顰めつつ注意を促したのだが、
「あっ」
 それが言い終わると同時に、のび太は、その着物につまずいた。
「馬鹿っ」
 すでに階下に立っていた出木杉は、慌てずに、予想通り転げてきたそれを、両手を広げ抱きとめた。
「ごめん」
「言った端からこけないでくれ。注意する意味がないだろう?」
「うん。悪かったよ」
 受け止めてくれた相手に身をまかせたまま、とろりと眠たげな眼差しを向け謝るのび太に、溜息をつきつつ、出木杉は、その身体を立たせた。
 そうして、ずり落ちている帯を一度ほどいてあげると、襟元をただし、手早く帯を結ぶ。それだけでも、床をこすっていた裾もあがり、歩き易くなる。
「ごめん」
 もう一度謝るのび太に、出木杉は、自分が着付けた出来栄えに満足そうに頷くと、その身体から、数歩離れた。
「いいよ、いつものことだからね。それよりも、どうして起きてきたんだい? まだ、眠っていてもいい時間だろう」
 外を見れば、強い日差しが店の奥にまで差し込んできている。人の声も慌しい。
 時刻は、すでに朝というには少し遅い時間で、すでに活動時刻である。
 この店―――「青猫楼」―――の主である出木杉も、すでに忙しなく店の準備に取り掛かっている。
 だが、一部の人間にとっては、まだ眠りの時刻でもある。
 この店は、普通の店ではない。所謂、遊郭と言われる場所にある女郎屋なのだ。
 出木杉は、この店の楼主であり、そしてのび太は、この楼で太夫と呼ばれながら、この女郎屋の商品であり、その身を売る者であった。
「ん〜、ジャイアンが、今日は昼前じゃないと時間ないっていったから」
「それなら、他の髪結に頼めばいいだろう?」
 ジャイアンは、のび太が贔屓している髪結である。
 無骨な体格に似合わず手先は器用で、出木杉も認めるほどその技術は高い。
 確かにジャイアンにやってもらえるならばその方がいいが、無理ならば他の髪結でも、腕のいい者はそれなりにいる。
 睡眠が何よりも大好きなのび太が、それを削ってまで、彼を望むというのは、なんとなくだが、気に食わない。
 もちろんそんなことはおくびにも出しはしない。
 それに、よく考えれば、のび太に触れる人間は少ない方がいいのだ。
 その方が、嫉妬するのも楽である。
 馬鹿な想いだと知っていても、出木杉は、自分の父親が少女と思い込み手違いで買ってきた幼い少年を、一目見た時から惚れていた。
 その少年が、ここで色を売るようになり、自分もまた、それを売り出す者へと変わっていっても、それでもまだ、この想いは捨て切れてはいない。
「だって、ジャイアンがここでは一番上手いし……それに、あんまり慣れない人に髪を触られたくない」
 幼い頃、この遊郭につれてこられ、ここで育ってきたにもかかわらず、のび太は少し人見知りなところがある。だが、ジャイアンは、のび太と幼い頃の遊び友達の一人のため、気心が知れているというようなのであった。
 もっとも、幼い頃はのび太はいつも、そのジャイアンに苛められて、泣きながらここに帰ってきたことはたびたびあったのだが。
 大人になったせいか、それとも何も無かった子供の頃とは違い、お互いに職を持ち、責任を負うようになったためか、そんな昔を忘れたような付き合いを二人はしていた。
「それなら仕方ないけどね。でも、そんなに眠たいなら、無理しない方がいいと思うけど」
 瞳を見ればまだ眠たげなのがわかる。
 昨晩、のび太が相手をした客は、かなり遅くまでいたのだ。
「そうだけど……ん〜、ちょっとだけ寝てようかな」
 そう言いながらなぜか階段の手すりにもたれかかったのび太を、出木杉は、慌ててそこから引き離した。
「って、こんなところに眠ったらダメだよ」
 寝るなら自分の部屋で、と言いたかったが、だが、すでに遅かった。
「……………」
 引き寄せた体は、そのまま抵抗無く出木杉の胸に飛び込んでくる。
 そして、聞こえてくるのは、規則正しい寝息。
「相変わらずだね」
 その素早さには常に賞賛を込めてしまう。
 すでに寝入ってしまったのび太を抱え、出木杉は仕事も中断したまま、自身の座敷に戻るはめとなってしまった。
 座敷に寝かせ、座布団を一つ頭の下に敷いてあげた。部屋の端にかけたままだった羽織も手に取ると、その肩にかけてやる。
 のび太は、幸せそうに身体を軽く丸めて眠りについている。
「まったく。いつになっても、君は手がかかるね」
 そういいつつも、出木杉の口元に浮かぶのは微笑。
 そっとのび太に手を伸ばすと、さらりと額にかかっていた柔らかな髪をかきあげた。
 そこには、昔と変わらない幼い顔がある。
 自分と同じ年にもかかわらず、化粧をしてもまだ、3つも年下に見られてしまう童顔だ。
 何も変わってない気がするけれど、それでもその髪から香る甘い匂いを嗅げば、そうではないことをいやおう無しに気づいてしまう。
「たった十年だけどね」
 のび太がこの職についたのは、十年前のことだ。十二の年で禿(かむろ)となり、それから五年間で太夫に仕立てたのである。
 器量が格別いいわけでも、技量があるわけでもないのび太を太夫に仕立てたのは、そうすれば、嫌な客を取らずにすむという考えからだった。
 この楼にいる限りは、客を取らないわけにはいかない。それでも、少しでも彼に辛い思いをさせないためにも、太夫として格を上げておきたかったのである。
 そんなことよりも、この店から、彼を出して上げれば一番いいことは、自分にもわかっている。
 何度か―――自分の気持ちに偽りつつも、そう言う提案をしたことがあった。
 この店を出て、他の土地で働かないかと。
 太夫までなったのび太は、食うに困らないほどの芸を色々と身につけている。一人で外に出ても、立派に働けるのだ。
 けれど、のび太の答えは変わらない。ここにいたいのだと、いつも告げる。
 それがなぜなのか、わからない。この世界が、彼に相応しいなどとは、自分は思ってはいないのだから。
 それでも、無理やりに外へ出そうとは、自分もしなかった。そうすることはできても、自分が、そうしたくないからだ。
 彼が、自分の傍からいなくなることを耐えられないから。彼を自分の傍から離したくないから。だから、彼は、まだここにいる。
「僕も君も変わってしまった」
 何も知らなかった子供ではもうない。
 今は、自分がこの楼の主で、そして、のび太はこの楼を支える太夫となった。
 想いは変わらないのに、自分達の距離はどんどん離れていく。 
 触れようとすれば、こんなにも容易いのに。
 指先が、彼の唇に触れる。零れる吐息一つでさえも、こんなにも愛しく思えるのに、けれど、自分と彼の関係は、変わらない。
「それでも――――君は、僕のものだよ」
 自分だけの誓いを口にし、出木杉は、眠れる姫にそっと口付けを落とした。 
 



 

















「おい、コラ。起きろ!」
 ゲシッ! 
 わき腹をしたたかに蹴られたのび太は、重たいまぶたを持ち上げた。
「ん〜、なんだよぉ〜」
 眠むろうとする頭をどうにか覚醒さえ、目を開けたのび太は、そこにいた人物を見ると、ふわあと大あくびして起き上がった。
「あー、ジャイアン」
「ジャイアンじゃねえ。人を呼んでおいて、優雅に寝てるな。ぶっ殺すぞ」
 もともとの強面の顔に凄みをきかせ、ゴロツキの風体を見せるジャイアンに、けれど、のび太はへらりと笑って見せた。
「おはよう」
「だから、おはようじゃねぇっ!」
 ゴンッ!
 拳を上から落とされたのび太は、「いたぁい」とわめきつつあたりを見回した。
「あれ? 出木杉は」
 ここは出木杉の座敷だ。けれどその本人は、ここにはいなかった。
「ああ? あいつなら、静香ちゃんのところに行くって出て行ったぞ」
「あっ…そうか。そんな時間か、もう」
 眠っているために鐘の音を聞きそびれ、今が何時だか見当がつかない。それでも、出木杉が彼女の元にいったならば、それがいつ頃か判別がついた。
 静香ちゃんは、お向かいの遊女屋の太夫である。出木杉は、ほぼ毎日彼女のところに決まった時間に、訪れていた。
「ほら、俺も忙しいんだ。さっさとやるぞ」
「わかったよぉ」
 手早く商売道具を並べだしたジャイアンに、のび太は、素直に頷くと寝乱れた服装を正し、そうしてその背を彼に向けた。
 ジャイアンは、目の粗い櫛を取り出すと、のび太のくしゃくしゃになった髪を解き解し始めた。
 まっすぐに伸びた髪は、艶やかで重みのあるいい髪だ。
 しっとりと手に馴染むその髪は、数多くの顧客をかかえる中でも随一を誇るものである。
 それを結えるのが自分だというのは、髪結としては、嬉しいことだが、それでも常に躊躇いも存在する。
 前に傾き加減で、じっとしているのび太を見つつ、丁寧に髪を梳っていく。
「いたっ…痛い……も、もっと優しくしてよぉ」
 じっとしているが、口は動かす。
 相変わらず、煩い客である。
「煩ぇ。なら、もう少し寝るのも気を使えよ。何度も言うが、結わえた髪をほどいたままの状態で寝るな。髪が絡まるのは当然のことだろう」
 これでも十分丁寧に梳っているのだ。
 文句を言われる筋合いは無い。
「だって、面倒だからさ」
 何度言っても一向にそれを直さないのは、その一言につきるためである。
 ひくり、と頬を引き攣らせつつ、ジャイアンは、手に持っていた櫛を置き、さらに目の詰まった櫛をとりだした。同時に、艶を出すために、髪油を塗りこむ。
「なら、切れ」
 さらに髪を梳っていく。
「切ったら商売にならないじゃないか」
 背中を向けているのでわからないが、たぶん相手はふくれっつらをしているのだろう。ぶぅと口から空気が漏れる音も聞こえてきた。
「…………じゃあ、こんなことやめちまえよ」
 準備を整った髪を手早くまとめ形付ける。
 髪を切れば、この仕事が出来ないことは知っている。それでもあえてそう言うのは、そんな思いがあるからだ。
「ヤダッ」
 だが、即座に拒絶されたその言葉に、手を止め、溜息をついた。
「好きでやっているわけじゃないんだろう?」
「ん〜、まあね」
 何度となく訊ねた言葉に、いつも奴は頷く。
 それでも、その次に返す言葉もまた、同じなのだ。
「それなら……ここから出ればいいじゃないか」
「だって、僕にはここ以外、いたい場所はないしね」
 決まりきった答え。
 行く場所がないがないというのではない。ただ、行きたい場所がないだけなのだ。ここに、いたいだけ。
 その理由も知っているが、だからこそ、何度でも同じ質問を繰り返してしまうのだ。
「馬鹿だな、お前は」
「うん。そうだよ」
 なんでもないように、さらりと笑い含んて返すその言葉が少し痛い。
 決して自分が望む未来は来ないことを知っていても、逃げ出すことも前に進むこともせずに、そこに留まり続けるのだ。
 馬鹿としかいいようのない人間だが、そんな馬鹿にいつも同じ質問を繰り返す自分も相当の馬鹿だろう。
 最後の仕上げをし、ほつれている箇所がないか点検すると、立ち上がった。
「ほら、出来たぞ」
「ありがとう、ジャイアン」
 嬉しそうにいつものように、にっこりと笑ったのび太に、掴んだ手鏡を渡す。
「やっぱり君に結ってもらうのが一番いいな」
 その出来具合を見て、感想をもらすのび太に、手早く道具を片付けていた手を止め、当然とばかりに笑みを返してみせる。
「そりゃどうも」
 手鏡をこちらに向けるのび太に、それを受け取ろうと手を伸ばすと、
「好きだよ」
 のび太は、一言そう呟いた。
 いつもの表情で、何のためらいも無く。
 その言葉とともに、手鏡も手渡される。
 それを受け取ったものの、その言葉は、受け取る気はなかった。
「………その言葉、あいつに言ってやれよ」
 『好き』という言葉。
 手練手管の一つなのか、彼は時にそれを口にする。
 タイミングよく見計らったように、相手の隙をついて、その言葉を告げる。
 その意味がなんであるかなど、無骨ものの自分には、わからない。
 だが、その言葉を聞くたびに、告げるべき相手は違うのだと、感じるのだ。
「ジャイアンって、凄いよね」
 何が凄いのか、わからない。
 だが、のび太は、それに満足そうに笑みを浮かべる。
「――――――いつか。いつか…言いたいね」
 何を、誰をとは問わない。
 問わなくてもわかる。
 それは、『好き』という言葉。
 『好き』だと本当に告げたい相手。
「いつかっていつだ?」
「そうだな…………ん〜、やっぱりいつかだよ。でも、確実に言うとしたら――――死の間際?」
「オイッ!」
 ぼとりと手鏡が床に落ちる。
 急いで取り上げ、割れてないかを確認してから、のび太を睨んでやった。
 その視線に、のび太は笑う。
「冗談だって。ほら、ジャイアンも忙しいんだろ。僕もこれから色々とやんなきゃいけないこともあるし、またね」
 すっと立ち上がると、笑みを一つ残したまま、逃げ出した。
 追いかけることはしない。
 こちらも忙しいのは本当だ。
 さほど経たずに、道具をしまいこむと、腰をあげる。
「言えよ、早く。とっとといっち前」
 誰もいない部屋で、ひとりごちると、そこを後にした。
 















◇◇ 桜寿さまよりコメント ◇◇(睡恋亭

スイマセン。こんな中途半端な品で。
一応予定の半分です。この作品は。
まだ、後で静香ちゃんやスネ夫もちょっぴり出演のはずでしたが、どうにもそこまではいけませんでした。

しかし、完全似非な遊郭話ですね(笑)
これは見逃してくださると嬉しいです。

タイトルの『煙花』は、春の景色で、華やかで麗しいという意味を含めて芸妓を示す言葉とか、書いてあったので、使用してみました。




のきゃ〜!!遊廓モノ!!(#><#)萌え!!
なんと、わたくしの投稿作品「出木杉→楼主」を御覧になって暴走されたとのこと。
よっしゃーーーーーーー!!!←心の声
あああ〜楼主出木杉が喋って〜、太夫のび太くんが寝て〜(笑)、髪結いジャイアンが叫んでる〜♥
タイトルも、すごい風情がありますね〜vv初めて知りましたその言葉!
桜寿さま、ぜひぜひ続きを!!(#^3^#)/




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